最終更新日:R6.1.17

ブルガリア 航空機メーカー一覧

この項目では、1925年から1954年までブルガリア国内に存在した航空機メーカー各社についてまとめています。


国営航空機工廟「DAR」
Държавна аеропланна работилница
1925年設立・1943年操業停止

 ブルガリアの首都・ソフィア市の北東部に位置する街、ボジュリシュテに設けられたメーカーである。

 第一次大戦の敗戦により停滞していたブルガリアの国内航空産業であったが、1920年代に入ると再建の機運が高まり、1925年にこの「DAR」が設立された。同年に招聘されたドイツ人技師ヘルマン・ヴィンターの指導により、まずはドイツ製航空機のコピー生産が試みられ、まずは「U-1」(DWC C-Vaのコピー)7機が製造された。
 つづいてオリジナル設計機の設計・製造も開始され、1926年には自国オリジナル設計による「DAR-1」初等練習機が初飛行した。しかし、第一次大戦後に締結されたヌイイ・シュル・セーヌ条約の制限、そして航空産業に対する当局の消極的姿勢により、「DAR」は技術面・規模面の双方において停滞を余儀なくされ、「枯れた」機体性能の練習機を少数生産するにとどまっていた。
 1930年代後半になると、空軍が装備近代化・規模拡張を志向したことから、「DAR」はより近代的・先進的な機体(DAR-3「ガルバン」戦闘機、DAR-10「ベカス」試作襲撃機など)の製造に取り組むようになった。そして1940年代に入り、ブルガリア北西部のロヴェチ市に新たな航空機製造拠点として国営飛行機工場「DSF」が完成すると、「DAR」の技術者や設備は新工場へと移転され、本工場は1943年ごろには操業を停止したとされる。
 本工場では、合計10機種のオリジナル設計機が設計・製造されたほか、外国製機体のコピー生産・ライセンス生産なども行われた。
 ※このページに、「DAR」で設計・製造された機体のリストを掲載している。


カプロニ・ブルガリア社
Капрони Български
1930年設立・1942年倒産

 ブルガリア中部のカザンラク市に設けられたメーカーであり、イタリアの航空機メーカー「カプロニ・ミラノ」社の傘下にあった。

 1926年、カザンラク市で航空学校が開校すると、隣接地域に航空機工場を設ける機運が高まった。そこで1927年、チェコスロバキア・アヴィア社との提携により工場の建設が開始された。
 新工場は1928年に完成したが、共同生産の条件をめぐってブルガリア・チェコスロバキア間での交渉が難航したことから、航空機の生産は行われなかった。アヴィア社は宙に浮いた工場で自動車車体を生産して糊口を凌いだが、1930年には工場を「カプロニ・ミラノ」社に売却した。
 カプロニ傘下となった工場は1932年より稼働を開始した。当初はイタリアで設計された機体を基に、ブルガリア側の技術者が改良・生産するという形がとられていたが、ヌイイ条約の制限もあって生産機種は低馬力エンジンを搭載した練習機・連絡機に限定されていた。この制限は末期には撤廃され、Ca.309爆撃機をベースとした双発爆撃機「KB-6」や、オリジナル設計の襲撃機「KB-11」の製造も行われたが、1942年には第二次大戦の進行に伴って倒産した。
 1932年の操業開始から1942年の倒産までの間に、合計8機種が生産された。なお倒産後はブルガリア政府の管理下に入り、国営航空機工場「DSF・カザンラク」として稼働を続けたが、これについては後述する。


国営航空機工場「DSF・ロヴェチ」
Държавна самолетна фабрика (Ловеч)
1940年設立・1954年閉鎖

 ブルガリア北西部のロヴェチ市に建設されたメーカーである。

 1938年7月のテッサロニキ協定(サロニカ協定)締結により、ヌイイ条約によって課せられた軍用機保有・エンジン馬力に関する制限が撤廃されたことから、ブルガリア政府は従来の「DAR」ボジュリシュテ工廟に代わる新たな航空機製造拠点の設置を計画した。ポーランド人技師の設計による本工場は、それまでのDAR・KB工場とは一線を画す大規模なもので、1939年より建設が開始された。
 建設開始当初の計画においては、ポーランド製PZL P37C型爆撃機を150機、チェコ製アヴィアB-135型を50機生産するとともに、DAR-10型機など従来の「DAR」製機体についても設計・量産化を進めるとしていた。しかし第二次世界大戦の開戦によって情勢が激変したことから、これら生産計画は白紙化された。
 1941年に完成・稼働開始した本工場では、DAR-9型練習機の量産およびDAR-10型襲撃機の開発が進められるとともに、空軍が運用するJu-87R/DやIL-2、また鹵獲されたYak-9やPo-2の再生・整備が行われた。また、ドイツ占領下のチェコスロバキア(ボヘミア・モラヴィア保護領)よりB-135型機12機分のパーツが輸送され、組み立てが行われた。
 第二次大戦後、ブルガリアは共産党政権が成立して東側諸国の一員となった。戦後すぐ、本工場では戦時中に残されたパーツを用いてFi 156「シュトルヒ」(ドイツ製軽飛行機)を少数生産し、これら機体は当時内戦中であったギリシアの共産主義ゲリラへと提供されたとされる。
 1948年、本工場は液冷エンジン複座多目的機「Laz-7」の製造を開始した。技師ツヴェタン・ラザロフらの手によって、わずか40日という短期間で製造されたこの機体は、1948年から1951年までの間に合計163機(試作機含む)が製造される成功作となった。工場では続いて共産党幹部向けの4人乗り軽飛行機「Laz-8」の製造、および空冷エンジンの多目的機「ZAK-1(Laz-7M)」の生産(1951年から54年までの間に、合計150機が製造)を手がけた。工場ではさらに、Laz-12軽戦闘機の試作、ソ連製Yak-12多目的機のライセンス生産を行った。なお本工場は1950年代、機密保持のために「第14工場」(Завод 14)に改名された。

 1954年、共産党政権は「第14工場」に航空機製造の中止を突如として命令した。工場は自転車工場へと転換され、その後も幾度かの業態転換を経て現在では「バルカン」(Балкан)オートバイ・自動車工場として操業している。


国営航空機工場「DSF・カザンラク」
Държавна самолетна фабрика (Казанлъ̀к)
1942年設立・1950年代中ごろ閉鎖

 1942年に倒産した「カプロニ・ブルガリア」社の工場をブルガリア政府が管理下に置き、国営工場としたものである。

 1945年までKB-11型機および訓練用グライダーの製造を担当し、共産党政権下の1949-50年ごろに機密保持の観点から「第6工場」(Завод 6)に改名した。また、「DSF・ロヴェチ」の「Laz-7」型機のうち、およそ20機は1950年から1952年までの間に本工場において製造されたとされる。

 本工場は1950年代中頃に航空機工場としての役目を終え、油圧ポンプ製造工場へと転換された。


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作成日 : R6.1.17